[ 第93話 ]


 インターフォンを押すと、少ししてからゆっくりとドアが開かれた。
「あー、何や、お前か」
 気だるそうだけれど、少しは体調が戻ったのだろう。矢部が、目をこすりながら顔を出した。
「お休み中にすみません、これ、お願いします」
 ガサ、と、鞄から報告書を取り出しながら、ぶっきらぼうに言ってみる。
「あー、めんど。中でやりぃ」
 僅かにふらつきながら矢部は、菊池を中に向かえた。
「具合、どうですか?」
「んー?」
 室内はリビングも寝室も、どこも朝に菊池が来たときと全く変わらない状態だ。
「熱とか」
「あー、まぁ、ちったぁ下がったみたいや」
 自分の額に掌を当て、上目がちに矢部は笑う。
「そうですか。でもぶり返してもアレなんで、明日も休んだ方がいいんじゃないですか?」
「オマエに言われんでも休むわぼけぇ、病人に仕事さすな」
 ガラスのテーブルの上に、菊池が置いた報告書。下部の、捜査員の名前を記すところに矢部はペンを走らせると、そのまま放るように転がした。
「そりゃ失礼をしました。じゃ、明日もサインだけお願いしますね」
「おーぅ…」
 はぁ、と、少し熱っぽい息が矢部の口から漏れる。多少下がったとはいえ、まだ熱は高いのだろう…
「あ」
「お前…」
 何か言おうと口を開いた時、唐突に矢部が言った。
「え?あ、はい?」
「今日…何もなかったんか?」
「何もって…」
「あー、えーんや。捜査中に何もなかったんなら、問題なしや」
 眠たそうに大きな欠伸を言葉に続けて、矢部は掌をひらひらと揺らす。これは、もう帰れ、の合図だ。
「大丈夫ですよ、僕だって刑事ですから。それも東大出の優秀な」
 じゃ、帰りますと立ち上がり、あっと思い出す。
「忘れてた、これ」
 んー?と、眠そうな矢部の目の前に、三つ折の紙を置く。石原からの、手紙だ。
「なんや、これ。辞表か?」
「違いますよ」
 くくっと、矢部から笑みがこぼれる。皮肉が言えるくらい元気なら大丈夫か、と、菊池は少し安心した。
「公安部屋で報告書かいてたら、石原先輩が来て。それ、矢部さんに渡してほしいって」
「石原?」
 なんやアイツ、また妙な事しよって…ぶつぶつと言いながら紙を開き、矢部は目を細めた。
「矢部さん?」
「…菊池、お前コレ、見た?」
「いいえ。先輩に、見ないよな?って念を押されたんで気になっても開けませんでしたよ」
 あの人、妙な威圧感あるから…という、菊池の続けた言葉はもう矢部の耳には届いていない。ただ、なんだか酷く悲しいような、切ないような気持ちが胸を占める。
「もうえーわ、お前、帰れ」
 ぐっと、何かを飲み込むようにしてからポツリと呟いた。
「え?」
「用は済んだやろ、さっさと、帰れ」
 僅かに唇を噛み締めるその様子に、何かを察して菊池は一礼し、足早に部屋を後にした。
「うーわ、なんか久々に怖かった、あの空気」
 すっかり夏の過ぎ去った、乾いた空気に身震いするように上腕部を両手でさすると、マンションの前に停めていた車に乗り込んでサイドブレーキを外した。
 季節の移り変わりは早いなぁなどと思いながら。
「かえ…ちゃ」
 クシャリ。矢部は、石原からの手紙を握り締める。
「えーんや、これで…あん子は幸せに、なるんやから」
 握り締める拳から、ふっと力が抜けると紙がひらりと矢部の膝に落ちた。
「始末書、か…」
 皮肉じみた笑みを浮かべ、再度手紙の内容に目を通す。

 ─── 始末書。
 兄ぃ!体調崩したって聞いたけ、大丈夫かの?
 兄ぃは昔っから、体調崩すと長引くけーの、明後日くらいまで養生したらえー。
 あーそうじゃ。
 ワシのー、かえでちゃんと付き合う事になったんや。
 あの子、兄ぃが妹みたいに可愛がっちょったから、報告じゃ。
 幸せにするから。
 兄ぃはもう、心配せんでえーからね。
 じゃ!

 バシィッ。
 …唐突に、矢部はその手紙を握り締めてから壁へと向けて放った。そして、顔を伏せる。
「幸せに、せぇよっ、あほんだら…」
 掌で覆った目元から、雫がはらはらと落ちた。。
 安心するところじゃないのか?これは。楓は愛する人を見つけて、それはまぁ、多少心もとないが、信頼の置けるかつての部下じゃないか…
 自分に何度も言い聞かせる。
「も、えーわ。寝よ、早う体調戻して、現場に行かな…いつまでも菊池だけじゃ」
 進展すらしないだろう…ぼそぼそと続けながら、目元を拭って寝室へと向かった。カーテンを閉めたままの、薄暗い室内。ベッドはもう乾いただろうか?まぁ、乾いていてもそこで眠る気にはなれない。
 ドサ…と、ソファに倒れこんで、タオルケットを体に巻きつけて目を閉じると、まだ微かだが残り香を感じた。
「春のにおいに、似とるなぁ…」
 楓はまるで、春の日差しみたいだと思う。そうして次に、自嘲気味に笑う。なぜこんなにも楓に執着するのか、脳みそがぐちゃぐちゃになるような感覚に陥るのか…わかってる事じゃないか、愛しかったんだ。
 ただ、愛しかったんだ。
「しかし、始末書はないやろが、アイツ…」
 ふぅー…と、長い長いため息の後に呟いて、一度、開いた瞼をそっと閉じる。

 翌日、体調不良を押しのけて矢部は警視庁へと向かった。天気は曇り。だけれど、風は心地良かった。
「あれ、矢部さん、もう大丈夫なんですか?」
 少し遅めに時間だが、課長はおらず、菊池がはっと声をかけた。
「おー」
「本当に大丈夫なんですか?捜査中に倒れたりしないでくださいよ?」
「あーほか、誰に向かってモノ言うとるんや」
 小突くように菊池の頭部を叩いてから、自分のデスクへと腰を下ろす。一服しようかなぁなどと考えていると、脇からそっと手が伸びてきて、矢部の前に珈琲の入ったカップを置いた。
「ん、おー、どうもな」
 顔を上げると、菊池が少し照れたように微笑んでいる。
「今日、何しますか?」
「そやなぁ…昨日お前、亀戸の方まで行ったんやて?」
「ええ、ちょっと下調べをしてました」
「下調べて何や?」
 捜査に集中しよう…そうすれば、その間は忘れていられる。そんな考えがふと頭をよぎり、頭を振ってから矢部は菊池を、睨むように見つめて言った。
「何って…ほら、瀬原って人の、今の状況になるまでの経緯を調べておけって前に言ってたじゃないですか」
「せば…あぁっ、瀬原!」
 言われて思い出す、人の良さそうなある意味哀れな男。
「忘れてたんですか?」
「いやっ、いや、いやいや、よーやった。ほな、今日はその下調べの続きやな」
「下調べは昨日で終わりましたよ」
「えーからっ、今日はその続きや!」
 病み上がりだからかどうか、若干キレのあまいパンチを菊池の頭部側面に放った後矢部は、立ち上がって伸びをしてみた。
 大丈夫だろ?ほら、な…。


 つづく


なんか矢部さんがグダグダー。
次から新展開に行きたいと思います。
92話の後コメに書いた予告とか…
書きたいシーンがわんさかなので、100話は越すでしょう。
よろしくどうぞっ

2006年3月15日

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