[ 第94話 ]


 数日連絡のなかった楓から、電話があった。
『風邪引いて、熱が出ちゃって』
 申し訳なさそうな声に、奈緒子は電話越しに慌てて首を横にふった。
「いいんですよそんなの全然!それで…その、もう大丈夫なんですか?」
『ん、大丈夫。熱も下がったし。バイトもね、今日のお昼から行くの』
 明るく装っているもの、声に、元気がないように感じられる。
「そうですか…」
『あ、あのね、奈緒子さん…』
 ふと、楓が言う。
「え?」
 僅かな沈黙を置いて。
『私、石原さんとお付き合いする事になったの』
 その言葉に、一瞬目の前が真っ白くなる。
「え…えぇっ?!」
『ご、ごめんね、突然。あの、奈緒子さんには話しておかなくちゃと思って…』
「え、や、謝らないでください、そんな…そ、それって矢部さんは…」
 コクン、と、小さく喉を鳴らすような音が受話器から聞こえた。
「楓さん?」
『ケンおにーちゃんには、もう…』
 連絡済だというようなニュアンスで、けれど最後まで聞くことは出来なかった。どこか緊張したような、楓の声にそれ以上は追及できず。
「そ…そうなんですか、あの石原さんと…」
『石原さん、優しい人だし…』
 楓の口から、何かを含んだような言葉が続く。まるでそうじゃないといけないんだとでも言うような。
「そう、ですか。まぁ、楓さんが決めた事なら私は何も言えませんけど…」
 ただ矢部の事が、気がかりだ。

「…だ、そうですよ」
 楓との短い電話でのお喋りの後、奈緒子はまっすぐに上田のいる科学技術大学の、研究室に足を運んでいた。
「…YOU、それを言う為だけに来たのか?もしかして」
「それ意外に何があるんですか」
 参ったとでも言うように、上田はギシッとチェアを軋ませて、デスクの上に万年筆を転がした。
「だから何だって言うんだ?楓さんが石原さんと付き合う事になった、いい事じゃないか」
 上田の言葉に、奈緒子は目をぱちくりさせる。
「本気で言ってんのか、上田」
「…なんだよ」
「楓さんは絶対に、矢部さんが好きだったんですよ?なのに突然、石原と付き合う事になったなんて…何かあったに決まってますよ」
「絶対にって…随分な自信だな」
「もしかして上田さん、気付いてなかったんですか?」
 まっすぐに、睨むような目つきで見つめられてたじろいだのか、上田は奈緒子からフィッと視線を窓の方に移し、顎の髭を指先でさすった。
「楓さんが矢部さんを、というのは不明瞭だったが、矢部さんが楓さんを、というのは何となく」
 夏祭りの時の、楓を見る矢部の眼差しから感じ取ってはいた。
「へぇ、気付いてたんですか」
「ん、YOUも、か」
「私は最初から気付いてましたよ。だって矢部さんのあの、楓さんを見る目!すっごく優しそうで…」
 不意に、奈緒子は言葉を止めて、僅かに唇をかんだ。上田はこの表情を、何度か見た事がある。事件に巻き込まれて、太刀打ちできなくなった時の、悔しそうな表情。
「俺たち他人がどうこう言っても、どうにも出来ないだろう」
「そりゃ、そうですけど…」
 わかってはいるが、腑に落ちない。そんな表情で、奈緒子は上目がちに上田を見遣った。
「それよりYOU、いい話があるぞ」
「何ですか、突然」
「来週末、金土日と大学の学祭があるんだ」
「…学祭?」
「ああ、気付かなかったか?校内じゃその準備であちこち騒がしい」
 そういえば、と奈緒子は思いをめぐらす。大学に入るなり、学生たちの賑やかな笑い声。
「お祭り、ですか」
「ああ、金曜は前夜祭で一番賑やかだぞ。屋台も出るし」
「屋台?焼きそばとかたこ焼きとかお好み焼きとか?」
「食い物しか出てこないのか、YOUの頭は」
 ぽんぽんぽんっと、屋台定番の食べ物が浮かんだ奈緒子だったが、上田に言われてもう一つ、浮かんだ。
「あ、そうだ」
「なんだよ、急に」
 む?と眉を顰める上田に向かって、奈緒子はにやりと笑んで見せた。
「上田さん、学祭、矢部さん呼んでくださいね」
「は?」
「気分転換にって」
「YOU、お前…」
「私、こう見えて結構お節介なんですよ。余計な事かもしれないけど、一回やったら最後までやらないと」
 にこっと微笑むと、腰掛けていたソファから立ち上がってすたすたとドアの方へ。
「YOU?」
「じゃ、ちゃんと呼べよ、上田!」
 軽快にステップを踏みながら部屋を出て行く奈緒子の後姿を見送ってから、上田は深いため息をついた。
「全く、他人の事ばっかりだな、あいつは…」
 たまには自分たちの事も、これくらい考えてくれたらいいのに…と。だがしかし、楓と矢部の突然の事に関しては自分も興味がある。
「やれやれ、か」
 ポツリ呟きながら、散らかったデスクの片隅に置かれた電話の受話器に手を伸ばした。
 電話越しで矢部は、元気がなさそうだった。けれど、学祭の話をすると僅かに声が明るみ、金土は無理だが後夜祭のある日曜日には伺いますと、陽気な返事を返して寄越した。
「日曜か…」
 賑やかな前夜祭とは対照的に、後夜祭は静かな盛り上がりを毎年見せていた。ロマンチックな催しもあり、実は毎年奈緒子を誘おうと試みていたのだが叶わず。
 目的は違えど、こうも呆気なく実現すると肩透かしを食らったような気分になる。受話器を置いた上田は、ぼんやりと窓の外の空を見つめ、再度息をついた。

 奈緒子の方はというと、大学から池田荘へ戻る道すがらに思い立ったのか、ポケットの中を探ると急に方向転換。足取りは軽やかに。
 そこを訪れるのは初めてだった。大きなショーウィンドウには、湯気のたった揚げたてのドーナツ。キツネ色のわっか…定番の砂糖をまぶしたものから、チョコレートでコーティングしたもの。甘い香りが外へも漂っている。
「いるかな?」
 そっと中を覗いてから、キラキラと目を輝ける奈緒子。
「うーわー…美味しそう」
 本来の目的ではないのだが、ついつい目がそちらに向く。しかも、一番安いものはどれかと何よりも先に値札をチェック。
「あ」
 ガラス窓の向こうに見慣れた姿を見つけた。伸びた髪の毛先を二つに分けてみつあみに結び、赤とピンクのチェックの帽子をかぶっている。
 お揃いのエプロンも。
 不意に、陳列をしていた彼女が顔を上げて、外にいる奈緒子と視線がかち合う。ぱっと表情を綻ばせて、彼女は店から出てきて口を開いた。
「奈緒子さん」
「こんにちは、風邪、大丈夫ですか?」
 にこりと微笑んだ楓が、大丈夫と答える。
「今日はどうしたの?来るの、初めてだよね」
「ええ、ちょっと…甘いものが無性に食べたくなって」
 ポケットの中におもむろに手を入れて、小銭の枚数を確認しながら奈緒子は言った。
「それに、楓さんに最近会ってなかったから」
「あー、そういえば。顔を見に来てくれたの?嬉しい!とりあえず、中に入って」
「あ、はい」
 促されて店内に足を踏み入れると、ふんわり焼きたて揚げたてのいい匂い。
「私のお勧めはねー、これ!チョコリング!もうちょっとしたらミニサイズのが仕上がるんだけど…」
 首だけ動かして奥の厨房を窺う様子を見ていると、楓はいつもどおりだと奈緒子は感じた。いつもと同じように明るくて、優しくて。
「ミニサイズって事は、通常サイズより安いんですよね?」
「もちろん。それに、通常サイズ一個分と同じくらいの量を買うとちょっとお得になるの」
 こそっと言う仕草も。だから奈緒子は、朝に楓から聞いた事を忘れそうになる。
「じゃあミニサイズ買おうかな…」
「それがいいですよ。私も今日買って行く予定なの、石原さんにあげようと思って」
 何気なく、耳に入ってくる名前。とても、違和感があった。
「石原さん…に?」
「そう、昨日お世話になったからそのお礼に…あ、寮母さんにもだ」
 店の人が、楓に少し早いけど休憩に入ったらと奥から声をかけてきたのを口切に、厨房とは逆側の奥にある客用の休憩スペースへと場所を移動する事になった。
「あ、ミニサイズできたみたい。ちょっと待っててね」
 奈緒子を席に座らせてから、楓が帽子とエプロンを素早く外して店の方へと戻り、少ししてからトレイに数個のドーナツと珈琲をのせて戻ってきた。
「あ…」
「奈緒子さんが来てくれたのが嬉しいから、私から」
 コトン、と、数種類のミニサイズのドーナツの入った皿をテーブルに置いて微笑む。
「そんな…でも、ありがとうございます」
 折角の厚意、お言葉に甘えてと奈緒子は一つを早々に自分の口に運んだ。


 つづく


前フリが長いのは私の書く時の欠点かもしれない(笑)
しかし、食べ物の話を書くとそれを食べたくなるのはどうしてだろうか…

2006年3月26日


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