[ 第96話 ]


 快晴、と言うほどではないが、随分と穏やかな日和だった。空は相変わらず高くて、なのに手を伸ばせば届くような錯覚に陥る。
 矢部はそんな日が好きだった。
「寒くないしな」
 誰に言うでもなく、呟きながらたらたら歩く。向かっているのは馴染みの部屋。校舎に足を踏み入れた時から何となく、そわそわしていた。多分きっと、出店やそこを訪れた客たちに感化されたからだろう…
「なんや懐かしいなぁ…」
 学校祭。響きが懐かしい気がするのはなぜだろうか、ふと、自分の学生時代を思い出して矢部は小さく口元に笑みを浮かべた。
 ── コンコン…軽く握った拳でドアをノックし、勢いよくあける。
「どーもぉ〜」
 室内には上田がいて、矢部の顔を見るなりほっとしたような表情を浮かべた。
「どうも、捜査の方はいいんですか?」
「今日は非番なんですわ。なにより折角センセに誘って貰ったんを断ったりなんてできませんよぉ〜」
 間違ってはいない、うん。矢部は自分に言い聞かせるようにうなずいて、部屋の中をぐるりと見渡した。
「どうかしましたか?」
 その様子に上田が首をかしげる。
「珍しいですなぁ、今日はアイツ、おらんのですか?」
「アイツ?」
「山田ですよ。こういうイベントやったら、呼ばんでも来るでしょう」
 ケラケラ笑いながらそう言った時、先ほど矢部が開けて閉めたドアがガラッと開いた。矢部の目に、上田が矢部の肩越しに来客へと笑みを向けるのがうつりニヤリとこちらも笑む。だが、振り返った時にその笑みは凍りついた。
「よぉ、矢部!」
 気付いても良かった…奈緒子はすっかり楓と仲良くなっていたのだから。
「ケンおにーちゃん…」
 久しぶりに会ったような気もする…楓は少しうつむいて、それからにこりと微笑んで見せた。
「ケンおにーちゃん、久しぶり。元気?」
「あ…あぁ、かえちゃんは?」
「元気だよ」
 他愛のない遣り取りをしている…そんな風に思いながらも、楓の笑顔にはほっとする。
「あんな、かえちゃん…」
「兄ィ?おぉっ、兄ィじゃぁ〜!!」
 矢部が楓に向けて何かを言おうとしたその時、楓の後ろから満面の笑みを浮かべた石原が飄々と現れた。それも、歓喜の悲鳴を上げて。
「つっ…だー!じゃーかしんじゃっ、ぼけぇっ!」
 気持ちいいくらい豪快に、そして華麗に矢部の拳が石原にヒットする。
「きゃっ?!」
 楓がそれを見て、慌てて一歩後ずさった。
「ありがとーございまっす!」
 拳を受けた本人は久しぶりの痛みが嬉しかったようで、にっこにっこと変わらず笑みを浮かべたまま続けた。
「兄ィに会えるとは思わんかったのー、嬉しいなぁ」
「オマ…エは、相変わらずやな。まーええ、なんや、今日は、あー…」
「ワシは楓ちゃんとデエトじゃ」
「そっ、そうか、そうや、な…」
 ふっと楓の方に目を遣ってから、すぐに視線を逸らして矢部は奈緒子と目が合った。
「あ」
「何が、あ。なんや、今日はお前、二人のお邪魔虫やな、大人しく上田センセと一緒におったれ」
 半ば強引に、楓の隣に立っていた奈緒子の腕を掴むとぐいっと引っ張り、上田の方へとその背中を押した。
「んなっ?!な、何すんだ馬鹿!」
 たまたま上田が席を立ち、コチラに向かって歩き始めていた時の事で、押された拍子に上田の胸元に奈緒子は顔面から突撃した形になった。上田は思わず奈緒子の肩に手を遣って、苦笑い。
「YOU、そう怒るな」
 上田はまんざらではない。だが、上田の態度に眉を潜めて、奈緒子は肩に置かれた手を払いのけ矢部に向き合った。
 矢部の表情からは、何も感じ取れない。僅かに怒っているような気がしないでもない。
「矢部…さん?」
 そっと、矢部が奈緒子に近づいた。横に並ぶように立つと、耳元に小さく囁いてきた。
「いらん事せんと、自分の事だけ考えとけ」
 苛立った声が耳に響くと、少しだけ罪悪感を感じる。
「なっ…だって、私…」
 二人の事を考えているのに、いつもうまくいかない。それを指摘されたような気がして思わず口ごもる奈緒子。と、何かを察したのか、楓が一歩踏み出して奈緒子の腕を組んだ。
「奈緒子さん、どうかした?ケンおにーちゃんも」
「えっ?あ、いえ、何もないですよ。ちょっと矢部さんの頭部が気になっただけで」
「気にするなっ!」
 ぺちっと、突然の奈緒子の言葉に矢部は思わず腕を伸ばしてその額を叩く。
「あたっ?!痛いじゃないか!馬鹿矢部!!そんなんだからいつもっ」
「奈緒子さん!」
 恐らくは罵倒か何かだろう。奈緒子が矢部に怒鳴りつけようとしたその時、まさに絶好のタイミングで楓が声を荒げた。
「は…あ、はい」
 はっとして奈緒子は、隣にいる楓に目を向けて我に返った。少し辛そうな表情の楓…こんな顔をさせたかったわけではないのに。
「奈緒子さん、ね、早く行こう?私すごく楽しみにしてたの。ね?」
「そうや、はよ…行け」
 一呼吸置いて、矢部が顔を背けた状態で促す言葉を吐いた。矢部も後悔しているような表情を浮かべている。
「そ、ですね、ええ、行きましょう!」
 楓と腕を組んだままの状態で、奈緒子はくるりと踵を返す。と、向かいには石原。
「ねーちゃんと兄ィも相変わらずじゃのー、いっつも口喧嘩ばかりじゃ」
 にこっと、居心地の悪いこの場の空気を一掃するような笑顔を見せて二人の横を通り過ぎると、矢部の前に立った。
「石原さんも、行こ?」
 楓がそう言うが、石原は笑顔のまま続ける。
「ワシ、上田センセに頼まれごとがあるんじゃー、先に行って」
 その言葉に、今まで傍観者さながらに立ち尽くしていた上田がはっとして行動に出た。
「そうそうそう、忘れていましたよ石原さん。ちょっとこちらに…」
 奈緒子に念を押されていた事でも思い出したのだろう。
「そういうわけなんで兄ィ、しばらくお願いしますけー」
「え?」
 だが奈緒子の上田も、石原のこの発言に思わずきょとんと身動きできなくなった。
「は?なんやて?」
「だから、ワシ、上田センセに頼まれ事されちょうるけー、その間楓ちゃんたちと」
 意味を把握できていなかったのは矢部も同じ。何も知らないはずの、しかも今は楓と付き合うことになったらしい石原から、予想外の言葉。
「な…」
 どう応えたらいいものかと、矢部は口をパクパクさせる。
「じゃって、楓ちゃんかわえーしのぉ。ねーちゃんも黙っちょれば美人じゃから、変な虫がつかんよぉ、兄ィ、お願いしますじゃ」
 にこっと微笑む邪気のない顔。昔からそうだが、この男は一体何を考えて日々を生きているのだろうか…
「そ…そうだぞ矢部!」
 流れに任せる事にした奈緒子が、楓と矢部の腕を掴んでとりあえずその場を後にしようと歩き出す。楓はそのまま、奈緒子の腕に自分の腕を回してほっとしたように微笑んだ。
「そうだね、行こう」
 ちらりと石原の方を見る楓の、横顔を見て矢部は切なげに微笑んだ。胸がちくりと、痛んだような気がしたから。
「しゃーないなぁ…てか離せボケ!」
 上田の部屋を出てすぐに、矢部は奈緒子の手を振り払った。
「ああ、すみません」
 だがすぐに、楓がするりと奈緒子と矢部の間に位置をずらして二人の腕を組んだ。
「え?」
「あ?」
「ケンおにーちゃんと奈緒子さんと三人、なんか楽しいね」
 下から覗き込むような角度で微笑む楓。
「そ、そーですね」
「そやな」
 奈緒子はとりあえず、矢部と楓を一緒にいさせる事に成功したのをいいとして、微笑んでみせる。なんとかなるだろうと、思いながら。
「あれ?二人とも、見て見てこれ!」
 少し歩いて、楓が壁の方を見て声を荒げた。
「え?何ですか?」
 つられて壁に目を向けた奈緒子の目には、大きなポスター。
「…仮装?」
 奈緒子の続くように、矢部の声。
「そっかぁ、今月末ってハロウィンだもんね」
 そこには大きくこう書かれていた…
『三日目の後夜祭には仮装で参加!キミも素敵なおばけになってみよう!』
「…素敵なお化けってどんなだ?」
 思わず口にした奈緒子に、隣で楓がクスクスと声を上げて微笑みを向けた。
「奈緒子さん、一緒に仮装しよっか」


 つづく


むりやりハロウィンパーティーもくっつけてみました。
いや、この学校祭、もともとはハロウィンパーティーの予定でしたから(笑)
どんな仮装をさせようかといまからウキウキしている作者です。
文体が…うぅ、ぐすん。

2006年5月24日

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