[ 第98話 ]


 一時間ほどして、上田がはっと気付いた頃には外もとっぷりと日が暮れて、中庭に並んだ露店の明かりがキラキラ輝いていた。
「あ、上田センセ、気が付いたようじゃのぉ」
「え?」
 声をかけられてそちらに顔を向けると、5…6本のビールの大缶が空になって転がっていた。
「上田センセェ、よー飲むのぉ、わしゃもうくらくらじゃぁ」
 頬を赤く染めた石原が、ふらりと立ち上がる。脇によけられたフラスコビンの下のバーナーは消えていた。
「い、いったい何が…」
 覚えていない事に驚愕していると、石原は空き缶をまとめてビニール袋に入れ始めた。
「あ、すみません、そんな事まで…」
「実験も終わったし、そろそろ楓ちゃんたちに合流せよーかのぉ…上田センセも行くんじゃろ?」
「え?あっ、そ、そうですね。いやー、助かりましたよ」
 石原の視線を気にしながら、水場にフラスコの中身を捨てて手早く洗い、逆さまにタオルの上に置く。中身はただの、色を付けた炭酸水だ。
「そーかのぉ?お役に立てて光栄じゃ。あ、そーいえば楓ちゃんからさっきメールがあったんじゃぁ、なんか面白い事になっちょるそうじゃよ」
「そうなんですか?」
 慌てて手伝おうと駆け寄るが、足がもつれる。相当なハイペースで缶を開けたらしい、もしかしたら寝ていたのかもしれない。
「あはは、ふらふらじゃのぉ、おんなじじゃぁ」
 上田の横で、石原も危なっかしくふらついてみせる。わざとやっているようにも見えるが、今の上田にはそこまで感じ取る事はできなかった。
 しっかりした意識の中で、時折豪快に視界が回るのだ。自分を支えるので精一杯。
「センセェ、大丈夫かのぉ?」
 石原に支えられるようにして、歩きながら二人は研究室を出る。廊下は賑やかで、各所から歓声や笑い声。
「もう大丈夫です、大丈夫ですよ」
 学生たちに、支えられている自分を見せるのはマズイ!と上田は石原の手を払いのけるようにして先陣を切ってすたすた歩き始める。それを見て、石原は苦笑いを浮かべた。
「頑固じゃぁ」
 長い廊下をしばらく進んで、曲がり角。曲がろうとした時、おもむろに逆側から曲がってきた一行にぶつかった。すたすたと酔いを誤魔化しながら歩いていた上田は、その一行の先頭を歩いていた人間と豪快にぶつかる。
「うおっ?!」
「にゃぁっ?!」
 聞き覚えのある声…
 ぶつかった人物は巨体の上田に適わず、バランスを崩して床に転げていた。長い黒髪が大きな青いリボンで結ばれ、ポニーテールが揺れている。
「ゆ、う?」
「あっ、上田!」
 慌てて立ち上がった彼女は、先ほど研究室で合った時とは全く違う装いをしていた。
「あんまりじろじろ見ないでくださいよ…」
 スカートの裾をはたきながら、奈緒子は深いため息をついた。真っ白なブラウスの、フリルのついた襟元にも青いリボン。袖口とボタンのところにもかわいいフリル。
「それ…」
 普段の奈緒子なら、恐らく絶対にしない装い。膝上丈のスカートは青で、裾から何枚も重ねられたようなレースが覗き、白いエプロンも。いわゆる英国のエプロンドレスと称されるものなのだが、はっきり言って、愛くるしい。
「似合わないって言いたいんでしょうけど、自分でもわかってるので言わないでくださいよ!」
 言われるより先に、と言わんばかりに奈緒子は上目がちに上田を睨みつける。が、その様もまた可愛くて上田は開いた口がふさがらない。と、そこに…
「不思議の国のアリスですわ」
 矢部の声が聞えて、上田ははっと奈緒子の後ろに視線を移した。そして固まる。
「矢部、さん?」
「おぉっ、兄ぃ!それうさ耳じゃのぉ〜」
 上田の横からそれを見て、石原が声を上げた。
「うっさいわボケェッ!!」
 矢部の頭には、長い白いウサギの耳。華麗な回し蹴りの際にそれも揺れた。
「アリガトーゴザイマッス!って、不思議の国のアリスでねーちゃんがアリスで、兄ぃはうさぎなんじゃのぉ」
 頼むから服は勘弁してくれ、と懇願したらしく、矢部はそのうさ耳と、腰からキーホルダーのようなもので白い尻尾を付けていた。それと首に、大きな懐中時計をぶら下げている。
「いわゆる白兎っちゅーやつやな」
「し、しかし何で不思議の国のアリスなんて…」
 上田が訳もわからず首を捻っていると、唐突に目の前に大きなポスターが現れた。
「おおぉぅ?!」
 ぴょこん、と楓が横から顔を覗かせて、指である箇所を指し示す。
「仮装、ですか?」
「演劇部で衣装を貸してくれるって書いてたあったので、三人で行ってみたんです」
 にっこり微笑む楓の衣装は、ポスターに隠れてよくわからない。
「しかしなぜアリスなんて…」
「この催し自体が演劇部の提案なんですって、でも沢山の人が衣装を仮にきて好き勝手に持っていかれても困るだとかで、先着順の抽選で」
 楓の横に奈緒子が立ち、続きを話す。
「ほぉ…」
「ハロウィンやからなんやお化けの格好させられるんかと思っとったら、こんなカワイーもんしかないそうですよ」
 ため息交じりの矢部が小さく呟く。
「そんじゃけ、楓ちゃんは何の仮装をしちょるんじゃ?」
 ぱっと、石原がポスターをよけた。
「あっ…あー」
 どうやら、一つのグループを一組として抽選させて、そこで”不思議の国のアリス”を引いたらしい。その後、それぞれどんな仮装をするか、というのを再びくじで決めたという事らしい。
「楓ちゃんは猫耳じゃのぉ」
 照れくさそうに、楓は頭上の耳をさわって笑った。
「アリスの友達の、チェシャ猫なの」
 襟首には大きな赤いリボン、腰からは矢部と同じように、キーホルダーのようなものでふわっとした長い尻尾。
「チェシャ猫というとアリスでは相当…困った性格のやつですが、なかなかかわいいじゃないですか」
「そうじゃのー、猫耳もよく似合って」
 チェシャ猫にはコレといった服装がないもので、楓も矢部と似たり寄ったりの感じだ。ただ一人、奈緒子だけが本格的。
「二人ともずるいですよ、私はこんなんなのに…」
 あーぁ、と息をつく奈緒子の横に上田は移動すると、ポンッと頭に手を置いた。
「上田、さん?」
「そう言うな、結構似合ってる」
 奈緒子の方を見ないままで、ポツリ。照れくさそうに。
「う…嬉しくないっ」
 クスクスと笑いながら、奈緒子と上田を残して楓と矢部と石原はそっとその場を離れた。
「上田先生って照れ屋なのね」
「そやな、おもろいくらいや」
 けらけら、矢部の笑い声。三人で少し歩いてから、矢部ははっと歩みを止めた。
「あれ、兄ィ?」
 楓と石原が、少し歩いて立ち止まり、振り返る。矢部の目に映る、二人。
「ああ、すまんすまん、オレお邪魔虫やな」
 穏やかに微笑んで、一服してくるからと踵を返して別の方向へと歩き出した。
「あっ、ケンおにーちゃ…」
「楓ちゃん」
 楓は思わず後を追おうとしたのだが、石原に制される。
「石原さん?」
「お腹空いちょらん?兄ィもきっと腹ペコじゃぁ、一緒に何か買ってこぉ?」
「え?あ…うん」
 寂しげに見送った背中は、何処か痛々しげだった。
「一服一服…」
 きょろきょろとあたりを見渡して、矢部は屋上への階段を見つけた。鍵は開いているだろうか?そんな事を思いながら、続くドアノブを捻る。
「お…」
 鍵はかかっていなかった。キィ…と開いて空。
「やっぱえーな、屋上」
 学校の屋上、というシチュエーションがなんだか妙に懐かしくて、矢部はククッと小さく笑った。そうだそうだ、そういえば、学生時代の頃に仲間たちとはじめて煙草を吸って見つかって、しこたま叱られたのが屋上だったっけ…などと思い出にふけながら。
「やめよかなぁ…」
 懐から取り出した箱から、一本取り出して咥える。ズボンのポケットからライターを取り出して、火をつける。穏やかな風に灰色の煙が揺れる。
「猫耳…」
 ふと、楓の猫耳を思い出して口元に穏やかな笑みが浮かんだ。可愛かったなぁと、素直に思う。けれど隣にいられない。
「しゃーないやんけ」
 ふぅーと、口から煙を吐き出して呟く。あの子の隣には、石原がいるじゃないか。先ほどまで、奈緒子を含めて三人でワイワイと歩いていた事を思い出しながら、その場にごろんと横になった。
 青空を仰ぐと、懐かしさばかりこみ上げてくる。遠くから聞える賑やかな声に、そっと目を閉じた。


 つづく


なんか最後の方がおかしくなりました(汗)
いや、あれか。
むしろ最初の方がおかしいのか(笑)
ちなみに構内には他にも色んな仮装をした人がうじゃうじゃいるので、奈緒子のアリスはそれほど不自然ではない設定です(笑)
楓に何の仮装をさせるか悩んだ…ハートの女王でも良かったかなぁ?何て思ったり。

2006年7月2日

■ 入口へ ★ 次項へ ■
(前のページに戻る時は、ブラウザの戻るをクリックしてください)

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送